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2014.04.05(Sat):占い
え~、かなり際どい領域の話ですね。
 出来れば避けたいお話ですが、そうもいかないようです。
ここ数年、神社巡り、お寺巡り、聖地巡りなどのツアーなども組まれ「神様」という存在が以前より身近に感じられますね。そういう、意味でしたら大変喜ばしい事と思います。が、どうも近年「神様」の捉え方や「信仰」の捉え方を勘違い、しておられる方々が一般にも大勢います。
 この、「神様」という存在を其仙流も完全に正しく理解、捉えているわけではありませんが、このままでは「古き良き文化」も失われかねない状況ですし、間違った「信仰」の仕方もまた蔓延しております。何より「オカルト占い師」「霊感占い師」たちが現代のニューカルチャーになってしまった、このある種の「神様ブーム」とでも言いましょうか、神社巡り、聖地巡りなどを「焚き付け」更なる間違った認識を広めている原因となっています。

 
 先ず、「神様」は存在するのか?しないのか?大変難しい問題です。
以前、私は「信仰」は大切であると述べました。「信仰」とは己以外に自己を生かしてくれている存在を認め、「感謝」する行為です。そういう意味であるならば、「信仰」は「自己を高める行為」にも成り得ますので「信仰」は大切であると言ったのです。
 そういう意味で申し上げるとするならば、「神様」は、いるのか?いないのか?ではなく「いると思っていた方が良い」という事です。

 「神様」「信仰」を間違った認識をしている方達からよくこんな事を耳にします。

「先日、神社の奉納演舞の一般参加に参加して来ました。」
「おごそかに、事も進み神聖な空気がその場に満ちているような気になりました。」
「演舞が終わった後は、まさに、心の中が光と愛に溢れかえっていました。」

え~、奉納演舞をしても心の中が光や愛で満る事はありません。このような方は「神様」「信仰」を何か勘違いされています。「神様」「信仰」をどう捉えるかは「自由」のある程度、範疇ですが何でも有りはちょっとどうかなと思います。
 確かに「信仰」は突き詰めると、そこに「自由」がないといけません。「宗教」となるとこの自由が阻害されるので以前、このブログで「宗教」はどうかな?と言ったわけです。それでも「宗教」に入るなら古来から続くものがよろしいと思います。
 少し脱線しましたね、現代人の「神様」「信仰」の捉え方は非常に「人間に都合が良過ぎる」「必要以上に美化しすぎ」「無いものねだりの上乗せ」等々、ちょっとそれが「神様」のあるべき形なの?それがあるべき「信仰」の姿なの?と思ってしまう事がしばしばあります。
 
 一昔前は、「神様」「信仰」=オカルト、陰的、身近な人にはばれたくない、霊感商法、などでしたが、現代はむしろ、積極的に「神様」「信仰」を自分の考え、思考、モラル感、人生観などに取り入れる風潮が見受けられます。
 それ自体は全く問題ではありませんが、どうも偏りがあったり、理解不足すぎたりと、困った状況であります。
「癒し系占い師」がこの間違った路線を大体言っております。

 これの、原因は「癒し系占い師」「オカルト占い師」「霊感占い師」以外にあるとするなら、「現代人の平和ボケ」です。時代によって「神様」「信仰」の形は変わっても、その本質は普遍的でありますから、このようなやたら「愛」「光」「慈愛」「偉大な存在からの導き」など感じる訳ないんですね。
 それは、ある種の現代人の「エゴ」に近いものです。
 
ですが、長い人生の中で、まさに「神の導き」を感じたり、本当に苦しんで悩んで目標を達成した時ふと偉大な存在の「愛」「慈愛」などを感じたりする事もあります。その正体は結局のところ分かりませんが、そのように感じたならば「自分は生きているだけではなく、生かされている」と思って、「感謝」の気持ちで日々を暮したら良いのではないでしょうか?
 ただ、それだけで人生の視点はかなり良い意味で変わって来るものです。
そこに、必要以上の「愛」だの「導き」だの「光」だのを持って来ると、「現実」から少しずつずれていきます。
 このように「神様」「信仰」を曲げて理解している人は「頭が飛び抜けて良い」「理屈で考えすぎる」「ある程度今の自分やその生活にゆとりがある」このようなタイプの人が大体、多いですね。
 もちろん、これ以外にも様々なタイプもあるんでしょうが・・・・。

この、「神様」「信仰」の問題は大変「宗教」との関わりもあり誠、難しい問題です。
 ただ、ある程度、確信を突いたお話をすると、「神様」は基本的に「個人」に直接、何かをしてくれるような存在ではありません。もし、直接その力を貸してくれるとするならば、「一生懸命生きてそれでも苦労をされている」者にそっと助け舟を出してくれるのです。それも奇跡に近い事ですから並みの苦労と努力では中々ダメでしょう。

 日本人は「神様」という存在を「一番上」に置いている民族と言っても過言ではないでしょう。
えっ?「神様」以上の存在がいるの?と、不思議に思うかもしれませんが、実は中国とかでは色々な説、解釈、考え方がありますが、「神様」は崇める対象ではあるが、人間に何かその力を貸してくれるような存在ではないという考え方があります。場合によって人間にその力を以って奇跡を起こす存在は中国では「仙人」を大体、指します。そして、その「仙人」が死んだ後、「神様」になるのだと考えられています。死んでしまった元「仙人」の「神様」は直接、人間と関わる事は無いので、生前の労をねぎらう意味で崇め奉られるんですね。
 あと、中国の古代哲学の中に「神や天より道が最も上」だという考え方もあります。
これは、老子、荘子、などもこの考え方を支持しています。と、いうかこの考え方の大元が老子であったようです。
 ちなみに私、ミズハもこの考え方を支持します。
と、いうのも依然「神様」はどのような存在なのか「無相」で観たところ、「神様」であっても「物理法則」は曲げれないと観えたからです。老子の言っている「道」とはある種の法則を説いています。つまり、「神様」であっても「物理法則」は自由自在に曲げたりは出来ないんですね。
 ですから、「神様」より「道」が上だという老子の考えは正しいと思います。

またまた、話しが脱線しましたね。
 現代人が「神様」「信仰」を歪曲して理解しても一体何が問題なの?と、思うかもしれません。
まぁ、確かにそう思うでしょうが、実は大きな落とし穴に知らず知らずのうちに落ちてしまうんですね。
 これは、現代人の全員がという事ではありませんが、「運勢学」と同じで「神学」もまた非常に難解な学問でもあり、我々、占い師が取り扱っている「運勢学」とある意味で近い学問ですから、これをある程度しっかり理解して自分の中に修めようとするならば、非常に高い人間性、人格が本来、求められます。
 この人格がもう一つ出来上がっていないものが「神様」「信仰」を説いてしまうと場合によっては、それがよかれと思ってやった事でも、知らずのうちに相手を傷つけたり、不快な思いにさせてしまったりします。
 厳しい言い方をすれば、「無知は罪につながる」と昔から言いますから。
自分は、「神様」「信仰」に精通している者だと思っても、実は往々にして間違っている事が大変多いです。
「生兵法は大怪我の元」とも言いますから。

何も、このような状況を招いたのは一般の「夢見る夢子ちゃん」ばかりではないと思います。
 住職、神官、宮司の方々ももっと、積極的に正しい「神様」「信仰」のあり方を発信すべき時ではないでしょうか?
このまま、行くと将来「信仰」の形や「神様」のあり方がその本質まで変わってしまうような気がしてなりません。
 まぁ、これまた日本中の住職、神官、宮司たちがと、言いませんが。
住職、宮司たちですら、「神様」「信仰」のあり方がもう一つ分かっていない方達も多くいるようですが・・・。
 
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